『忠魂碑(ちゅうこんひ)』をご存知でしょうか。
忠魂碑は、戦死者の氏名が刻まれた石碑の中でも、
日露戦争後に建立されたものが多く、慰霊碑とは区別し
戦死した兵士を称える意味合いが含まれます。

忠魂碑のある場所を検索すると、
今も全国に数多くあることが分かります。
忠魂碑の多くは、見上げるようなサイズで作られ、
中には、砲弾型のものも見られます。
小学校、公園、神社お寺などに建てられています。
戦時中、小学校にある忠魂碑には児童が登校する際、
一礼するよう指導され、教育的な側面もあったようです。
太平洋戦争後には、GHQの指導により
忠魂碑は戦争を賛美する象徴とみなされ、
多くは撤去や埋めたてを余儀なくされました。
碑を守る為、住民が山中へ運び隠した話も残っています。
昭和27年サンフランシスコ講和条約後には、
慰霊碑の建立が認められ、忠魂碑を地中から掘り出して再建したり復元されるものや、新たな建設も行われました。
三重県亀山市の能褒野神社にある忠魂碑は
総高さ5mと大きな石碑です。

大正9年1月建設
川﨑村在郷軍人分会が発起人と彫られています。
当時、在郷軍人会の地域ごとにある分会が中心となり
忠魂碑が各地に建設されました。

側面には、戦病死者氏名として
兵種 氏名・階級などが刻まれています。

・明治二十七八年役(日清戦争)
・大正七八年役
・昭和九年役
・日支事変(日中戦争)及び大東亜戦争
と戦争ごとに氏名が刻まれていました。
台石には、昭和三十三年 郷友会の文字もあり
戦後10年以上を経て、新たに氏名が刻まれた人もいたのではないでしょうか。

慰霊碑ではなく、「忠魂碑」と刻まれていることは、
戦争の歴史を残す貴重なものでもあります。
神社の近くには、終戦まで北伊勢陸軍飛行場があり、
戦局が厳しくなると、航空特攻の訓練場にもなっていたそうです。
能褒野神社の忠魂碑を調べる中で、
終戦直前8月2日に亀山で起きた、戦闘機による機関車銃撃事件を知りました。
記録を残し伝えることが、歴史を知るきっかけになればと思います。
戦勝祈願をして出兵し、国のためにと命を捧げた人が惜しまれます。
見送った親、兄弟、妻子の思いは想像しきれません。
弊社では昨年、こちらの忠魂碑の改修工事をさせていただきました。工事の様子は、また紹介します。(N)
忠魂碑は、戦死者の氏名が刻まれた石碑の中でも、
日露戦争後に建立されたものが多く、慰霊碑とは区別し
戦死した兵士を称える意味合いが含まれます。

忠魂碑のある場所を検索すると、
今も全国に数多くあることが分かります。
忠魂碑の多くは、見上げるようなサイズで作られ、
中には、砲弾型のものも見られます。
小学校、公園、神社お寺などに建てられています。
戦時中、小学校にある忠魂碑には児童が登校する際、
一礼するよう指導され、教育的な側面もあったようです。
太平洋戦争後には、GHQの指導により
忠魂碑は戦争を賛美する象徴とみなされ、
多くは撤去や埋めたてを余儀なくされました。
碑を守る為、住民が山中へ運び隠した話も残っています。
昭和27年サンフランシスコ講和条約後には、
慰霊碑の建立が認められ、忠魂碑を地中から掘り出して再建したり復元されるものや、新たな建設も行われました。
三重県亀山市の能褒野神社にある忠魂碑は
総高さ5mと大きな石碑です。

大正9年1月建設
川﨑村在郷軍人分会が発起人と彫られています。
当時、在郷軍人会の地域ごとにある分会が中心となり
忠魂碑が各地に建設されました。

側面には、戦病死者氏名として
兵種 氏名・階級などが刻まれています。

・明治二十七八年役(日清戦争)
・大正七八年役
・昭和九年役
・日支事変(日中戦争)及び大東亜戦争
と戦争ごとに氏名が刻まれていました。
台石には、昭和三十三年 郷友会の文字もあり
戦後10年以上を経て、新たに氏名が刻まれた人もいたのではないでしょうか。

慰霊碑ではなく、「忠魂碑」と刻まれていることは、
戦争の歴史を残す貴重なものでもあります。
神社の近くには、終戦まで北伊勢陸軍飛行場があり、
戦局が厳しくなると、航空特攻の訓練場にもなっていたそうです。
能褒野神社の忠魂碑を調べる中で、
終戦直前8月2日に亀山で起きた、戦闘機による機関車銃撃事件を知りました。
記録を残し伝えることが、歴史を知るきっかけになればと思います。
戦勝祈願をして出兵し、国のためにと命を捧げた人が惜しまれます。
見送った親、兄弟、妻子の思いは想像しきれません。
弊社では昨年、こちらの忠魂碑の改修工事をさせていただきました。工事の様子は、また紹介します。(N)